Buddha

資料と文献

資料ハガキの記録・誓願の記録・法座の記録・夢のご指導
文献1 テーラーガーター・ダンマパダ・ウダーナヴァルガ・サンユッタニカーヤ・テーリーガーター・スッタニパータ
文献2マハーバーラタ・八千頌般若経

ハガキの記録・誓願の記録・法座の記録

大乗仏典(八千頌般若経)ⅠとⅡ・サンユッタニカーヤ・スッタニパータ・テーリーガータ・テーラーガータ・ダンマパダ・ウダーナヴァルガ・サンユッタニカーヤ・大乗仏典(維摩経 首楞厳三昧経)

解義本の25番の解説をよく頭に思い描きながら、このくだりの部分の漢文を音読し、思い描いていくと、三昧に入れる。その練習です。簡単な解説は下2枚にありますが、これをよく頭に心に入れた状態で、漢文を音読しましょう。

同じことを言ってますが、本来なら、解義本が手元にあれば、一番いいのです。それでも、下2枚も同じことを書いてあるので、よく読んでください。

11/7 二つ夢を見たのでご指導をいただきました。最近のお言葉は、変え向きな内容なようです。そして、法座日で感じたままを会長にぶつけたのですが、霊患者の修行に入った人が、先輩の霊患者に作法を習っていたんですが、その姿が私は鼻に来ていました。それで、会長に役があって羨ましいと。そしたら、それは役でも何でもないらしく、むしろ、説法の時に質問したり、経文の一部分を誰よりも早く答えたりする方が、役であるという。それも間違ったりしても、同じだそうです。むしろ、説法の時に、眠気が及んでいる人が多いらしく、私は、日によって眠気はあるのですが、どちらかというと、楽しく聞いています。逆に褒められたので、驚きました。夢二つを見たので、ご指導をしてもらったのですが、その内容も、結構前向きな内容で、これから先、無相の世界に入っていく段階に入っているらしく、決意をしなさいという。ちょっと難しいことなので、質問したら、今月の会報で回答されているのでよく読んで質問してくれとのことでした。会報は毎月15日に届くので。あとは、誰か私の話を聞きたがっている人がいるというのですが、今のところいないです。でも、会長曰く、無になっていると霊界が動くので、どうも思いもよらぬ人だそうです。それと、こんな週明けだったのですが、火曜日に、先輩に、経管を撮りにいくのに外介助の時間が重なってしまい、別の人が撮りにいくことになってしまったことを話しました。その人とは服主任であり、ちょうど早番で帰る時間なんだそうで、先週、知らずにいたら、「お礼を言わないのはおかしいから」とお礼を強要されました。そのことを外介助の先輩に話したら、怠けている訳でなく、しかも、まだ患者を移動させている最中の時間に代われるわけない、と。火曜はとりあえず、周りの人に手伝ってもらい、経管を撮りに行って、詰めてきたんです。ですが、昨日先輩が、副主任に話してくれたらしく、時間になって手が開かない場合、無理だから、と。ただし、患者のことが終わって片付けなら、それを後回しにしてできると。これでもしいけなくても、ペコペコする必要はない!と言ってくれました。こういうトラブルはいっぱいあり、本当は辞めたくて仕方ないのですが、足が悪くて、転職も、病院を辞めてから2件なので、今が3件目なんです。だから、歳も歳ですし、どこか楽に働けるとこ探しながら、今続けています。でも、少しトラブルが収まって、昨日はやりやすかった。日によって違ってくるのですが。。。

2024/05/20

以下、普賢菩薩の陀羅尼です。意味も覚えると良いでしょう。挑戦してみてください。

無我(アタンダイ):我(自己の存在を表示すること)を無くせ

除我(タンダハダイ):我を一段一段と上がらせて、古き我を消せ

回我(タンダハテ):新たに生まれる(回)我は

實仁和除(タンダクシャレイ):まれなる智慧と慈しみで、階段を上がっていく

甚柔軟(タンダシュダレイ):はなはだしなやか

柔弱(シュダレイ):かよわきことを持つこと重要

句見(シュダラハチ):そうなると、経典の一句が見えてくる

諸仏回(ブッダハセンネ):諸仏が我をとりまく

諸総持(サルヴァダラニアバタニ):様々な記憶がよみがえる

行衆諸説(サルヴァヴァシャアバタニ):多くの仏が説きたもうた諸法を蘇らせる

蓋廻転(シュウアバタニ):あたかも、傘がクルクル回るように

尽集会(ソウギャハビシャニ):党を終わらせよ(諸法への執着を捨てる)

除衆趣(ソウギャネキャダニ):多くのこだわりを除け(人それぞれが持つ好み・偏向)

無央数(アソオギ):そうすれば、計り知れないほど多くの

計諸句(ソウギャハギャダイ):様々な詩句が見い出せる

世(テレアダソウギャトリャ):それぞれの一つ一つの世界は(一念三千の法)

三世数等(アラテハラテ):宇宙全土の数に等しい(一個体の中にも三千世界がある)

超有為(サルヴァソウギャサンマジキャランダイ):有為(うい)を超えよ(現実と思っているものは、真の現実ではない。目に見えるものに囚われるな)

学諸法(サルヴァダルマシュハリセッテ):諸法を学べ(ここは無量義経説法品に基づく。諸法が 「生・住・異・滅」と変化する実状、そして諸法への執着から「憂・悲・苦・悩」が生まれるを観察する。

脱衆生声(サルヴァサッタルダキョウシャリャアトギャダイ):衆生の声で告げよ(よき方便→その時代・その社会に適した悟りへの手段→を生み出せ)

師子極楽(シンナビキリダイテ):ライオンの子供が遊びたわむれるがごとく

(一七七d)そして、善逝は以上のように解かれたうえで、さらにまた、師(である世尊)は次のように(詩頌をもって詳しく)お説きになった。

あらゆる存在は、(いかなる立場にも)とどまることのないものである。(それらのものは)本性としては、(輪廻の世界から)離脱したものであるから、それらのものにはあるべき場所がないのである。だから、(何ものにも)とどまることがないといわれる。[一]

(あらゆる)存在は本性としては浄く輝けるものであるから、それらのものは実体としてあryのではない。実体として存在しないこと、それがもの(法)の浄らかさである。[二]

実体として存在しないのであるから、そのものに対する執着はない。執着がなくなったとき、それがそれゆえに、ダーラニーといわれる。[三]

あらゆる存在はそのようなものであって、それら(存在)には、(それらを表現する)ことばはない。多くの教えの海、それがダーラニーとして説かれたのである。[四]

実体として存在しないとき、そのこと(実体のないこと)も分別されることがない。我(実体)として分別sされないとき、(それが)ダーラニーそのものであると知れ。[五]

あらゆる存在は寂静であり、本性としては無相である。人が叡智を持ってそのことをさとったとき、彼はまた、すみやかにダーラニーを獲得しよう。[六]

あらゆる存在は動かないものである。そのような(存在)においては、(こわれるところの)世間はない。(こわれることを本性とする)世間が存在しないとき、それがダーラニーといわれるのである。[七]

あらゆる存在は完成されたものではない。実体としてあるのでもなく、いささかも完成されることもないとき、それがダーラニーといわれるのである。[八]

あらゆる存在は把握されるべきものではない。それらのものには始元があるのではない。あるものに始元がないとき、それがそれゆえに、ダーラニーと知れ。[九]

あらゆる存在は、生起することなく、(ただ)妄想からあらわれる(のみ)である。妄想が存在すないとき、それがそれゆえに、ダーラニーと知れ。[十]

あらゆる存在は非存在としてあり、(それが)分別されることなく説かれているのである。そこには何か説くこと(というもの)があるのではない。それゆえに、”説く”といわれるのである。[十一]

あらゆる存在は他のものと混ざりあわないものであるし、また、それらのものには本体があるのでもない。(このように存在が)存在として認められないとき、それらのものには差別がない。[十二]

あらゆる存在は執着されるものではない。それらのものは虚空と同じように(本性としては浄らかである)。それこそが存在の本性であり、ダーラニーというのもそのことに他ならないのである。[十三]

あらゆる存在は一相出会って、それらのものにおいては”一”ということさえあるのではない。それらのものには種々の本性があるのではないから、だから、それらのものは一相なのである。[十四]

あらゆる存在は無相である。それらのものには実体があるのではない。実体として存在しないとき、それがゆえに、ダーラニーといわれるのである。[十五]

あらゆる存在は(輪廻の世界から)離脱したものであるから、それらのものには実体性があるのではない。実体として認められないとき、それがダーラニーであると知れ。[十六]

あらゆる存在はとどまることもなく、起きあがることもない。起きあがることがないとき、それが涅槃と言われるのである。[十七]

あらゆる存在はつくり出されたものではないし、それらのものには、衆生(という主体性)も存在しない。衆生の(非存在という)本性、それがダーラニーといわれるのである。[十八]

あらゆる存在は(業のよって)つくられたものではなく、そこには(業を)なすものもない。業のはたらきがないとき、そのことがダーラニーといわれるのである。[十九]

眼は存在しないのであるから、あらゆる存在は見るものではない。あるものに眼が認められないとき、それら(存在)は無であるといわれるのである。[二十]

心は存在しないのであるから、(あらゆる)存在は思惟(識)を離れている。考えることも知ることもないのであるから、だから、思惟は存在しないのである。[二十一]

知るのでもないし、同様に知らないのでもないようなばあい、また、心そのものが存在しないようなばあい、そのかぎりにおいて、知るのである。[二十二]

あらゆる存在は実体としてあるのでなく、ただ名称としてのみ語られているにすぎない。知とか無知とかもまた、それと同じもとして理解せよ。[二十四]

あらゆる存在は無であって、ここには何もあるのではない。(あらゆる)存在がないとき、それが存在の究極のあり方である。[二十五]

あらゆる存在は、本性としては量り知れないものとして説かれている。衆生の(量り知れないという)本性、それがダーラニーといわれるのである。[二十六]

あらゆる存在はうつろであって、それらのものには内実があるのではない。内実が存在しないとき、それがダーラニーの相である。[二十七]

あらゆる存在には対立者が存在しない。そうであれば、(あらゆる存在は)一相である。そこで(一相であるから)無相である(あらゆる)存在に、対立はありはしない。[二十八]

あらゆる存在は無差別であって、優劣があるわけでもないし、それらのものには同等さといったものもあるのではない。それがそれゆえに、ダーラニーといわれるのである。[二十九]

等しくして平等なのであるから、あらゆる存在には多様性はない。多様性がないとき、それがダーラニーといわれるのである。[三十]

あらゆる存在はないのであるから、それらのものは(前世から生じ)くることもないし、また、(来世に)生まれ変わることもないのである。そこにものの本性(法性)はあるのである。[三十一]

あらゆる存在は(前世から生まれて)くることはないのであるから、この世に生まれることはない。生まれることがないとき、それがダーラニーといわれるのである。[三十二]

あらゆる存在は不可思議であって、それらのものは有でも無でもなく、把握されることもない。それがダーラニーの相である。[三十三]

本性としては我gのであるから、あらゆる存在は互いに相対するものではない。また、我は存在しないと説かれたのであるから、本性はないと知れ。[三十四]

もの(色)が三界を超越しているとよく知りなさい。(あらゆる)存在は得られないのだから、それがダーラニーと述べられているのである。[三十五]

あらゆる存在は金剛のようなものであって、それらのものには差別がない。それゆえに、(それらのものは)本性が空である。したがって本性があるのではない。[三十六]

あらゆる存在は不動であって、それらのものには崩壊することがない。それら(あらゆる存在)は生ずることがないから、それゆえに、崩壊することがないのである。[三十七]

あらゆる存在が滅しない(ことを見る)とき、(人はそれを)正しく見ていることになるのである。ある人たちが最高の菩提(の境地)にいるとき、彼らは何ものに対しても妄想を加えはしない。[三十八]

存在をいささかなりとも認め(たり妄想したりし)ないこと、それが仏陀の菩提であると説かれた。あらゆる存在が把握されたものとしてはないこと、それが菩提の相である。[三十九]

物質的存在(色)そのものに本性がないから、ダーラニーには物質的存在がないと説かれた。しかし他方、物質的存在なしでは、ダーラニーとして認めることにもならない。[四十]

物質的存在には本性がないにもかかわらず、本性があるといわれる。そのように本性を知るとき、ダーラニーは生じるのである。[四十一]

このダーラニーが(文字に)書き写されたときには、それはただ名称としてあるにすぎない。これがダーラニーであるとはっきりと語られるような、そのようなものがあるのではない。[四十二]

眼をダーラニーと知りなさい。このことが教説によって(転法輪において)説かれたのである。(あらゆる)存在に執着のないこと、それをダーラニーと説かれたのである。[四十三]

同じように、(耳、鼻、舌、身という他の項目にも)関係づけられるのであって、心(意)をダーラニーと知りなさい。そのことが教説によって説かれたのである。(あらゆる)存在に執着のないこと、それをダーラニーと説かれたのである。[四十四]

そのばあい、(無限の項目にかんして)無限に説かれるのであり、(あらゆる)存在をそのように知り尽くしたとき、何ものをもそのものとして認めないかぎり、あらゆるものがダーラニーであると説くのである。

誰かダーラニーを求めるものが、(教えを求めて)いき、(あらゆる)存在を以上のように知って、(ものには)執着されるものがないと説くならば、ダーラニーは確立されたのである。

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