Buddha

四諦の法・十二因縁の法・一仏乗

春秋の誓願祈願(春3/21, 秋9/23)

提示されたプリントをノートに書写し、当日、解説をメモします。それが、何よりも大切な宝となります。書いた後、何度も読み返し、わからなければ質問し、記録していく。そうすることで実相という言葉や形にならない教えを深く深く理解し身に着けていくのです。

さて、秋の誓願修行の書写プリントの部分を載せたいと思います。本来はノートに書写し、当日に解説されますので、各々メモをしていきます。そしてそれが各自の宝となります。今回は17枚です。(原稿はA3を8枚と、B5が1枚)

さとりは空である

 そのとき、スブーティ長老が世尊にこうお尋ねした。

「世尊はこう仰せられました。

『無上にして完全なさとりは得がたいものである。無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいものである』と。

世尊よ、悟る人などは実は誰もいないのに、どうして無上にして完全なさとりは得がたく、無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのでしょうか。

それはなぜかと申しますと、世尊よ、すべてのものは空であるからです。

それをさとることができるような、いかなるものも存在いたしません。

というのは、世尊よ、すべてのものは空であるからです。

そのものを断ずるために教えが説かれる、そういうものも存在いたしません。

同じように、無上にして完全なさとりをさとるであろう人、さとれるべきもの、知るであろう人、知られるべきもの、これらすべてのものは空なのです。

世尊よ、こういう仕方で考えますと、私にはこう思えます。

『無上にして完全なさとりはさとるにやさしいものであって、得がたいわけではないのだ』と」

こういわれて、世尊はスブーティ長老に仰せられた。

「スブーティよ、生起しないものであるから、無上にして完全なさとりはあ得がたいのである。

スブーティよ、存在しないものであるから、無上にして完全なさとりは得がたいのである。

スブーティよ、区別されないものであるから、無上にして完全なさとりは得がたいのである。

スブーティよ、つくり出されないものであるから、無上にして完全なさとりは得がたいのである。

無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのである」

そのとき、シャーリプトラ長老がスブーティ長老につぎのように言った。

「スブーティ長老よ、たとえ空であるという考え方によっても、無上にして完全なさとりは得がたいものなのです。

無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのです。

それはなぜかというと、スブーティ長老よ、虚空には『私は無上にして完全なさとりをさとろう』という考えは浮かばないからです。

スブーティ長老よ、これらの事物はこのようにさとらねばならないのです。

それはなぜかというと、スブーティ長老よ、すべてのものは虚空に似ているからです。

スブーティ長老よ、もし無上にして完全なさとりが得やすいものであったならば、ガンガー河の砂の数ほどの菩薩たちが、こんなに無上にして完全なさとり(をさとろうとする道)から退転しはしないでしょう。

スブーティ長老よ、実に、ガンガー河の砂の数ほどの菩薩たちが、無上にして完全なさとり(をさとろうとする道)から退転するのですから、スブーティ長老よ、『無上にして完全なさとりは得がたい。無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのだ』と、こう知られるわけです」

※続きはダウンロードしてお読みください。

使った文献は、大乗仏典3「八千頌般若経 II」 中央公論新社