Buddha

四諦の法・十二因縁の法・一仏乗

毎月の説法

薬草喩品  百三十九頁二行目~百四十二四行目の解説

解義(上)の百四十四頁~百五十頁をまず一読して下さい。

世尊は神や人間の前で宣言します。サンユッタニカーヤという経典があります。神々、そして悪魔たちとの対話が載っています。他の経典にも多々出てきますが、実在ブッダは人間を対象とした説法ばかりでなく、霊界の住人(ヤッカ)に対してかなり数々の教えを説いています。ここが重要なのです。多くの人々は神と仏を同等に考えています。経文をひもとけばただちに理解できることです。仏は神々を教え導く師です。なぜならば神も迷える衆生だからです。それは比喩品三番でも分かります。三界はいまや焼け落ちる家屋同然だからです。そうとも知らずその家の中で遊びたわむれている子供たちが神々なのです。地球は太陽の寿命が尽きる時には大爆発する太陽の火につつまれます。その時、地上天である三十三天は火に焼かれ、空中天であるヤーマ天・トソツ天・楽変化天・他化自在天(ここまでが欲界)も焼かれ、さらに色界の梵天も焼失します。ですからその時までに、色界の光音天や遍浄天や有頂天に移住してないとその身も火につつまれてしまいます。さらに火災が七度あってから水災があり、もっと長い周期で風災が起こります。この大宇宙の終わりがあります。どこにも安穏な居場所は無いというのが仏の教えです。これを前提として知っていなければ仏教の入口には立てないのです。この大宇宙を火に焼かれる家屋にたとえた三番の経文を読み、その家から出るための小さなたった一つの門、そして、外に出て休んでいる子供たち、そして、外に出たのはそれぞれが欲する玩具を手に入れることであった、そかし、求めた玩具あh与えてもらえなかった、そして、大白牛の車を見せられた。これが何をたとえているか一つ一つを解説により識り得るわけです。この章(五番)は、雨が教え、教えを享受する者を草木、森林にたとえています。

神々、人間を前に宣言します。

「私(如来)は、二本足で立つ者の中で、最も尊い。世の中に現れたのは、まるで大いなる雲のようである」と。雲は雨を降らせる吉兆です。あらゆる生物を等しく潤します。草であろうと木であろうと、差別なく等しく降り注ぎます。受ける草や木にはそれぞれ差別あって能力にしたがって分相応に成長します。その雨という教えは一つの味である(その法一味にして)とあります。解脱・涅槃なりということは、悟りにより執着から解放されること、教えの目ざすものは永遠の安楽なのです。念願がかなって、希望がみのって得られる喜びでもなく、憂い悲しみ苦痛が離れて安緒を得ることでもないのです。それらは得ても一時のことで永遠の安穏ではありません。「しかし」です。このネハンというのは、火宅を出るためのたった一つの小さな門だったのです。「常に大乗のためにしかも因縁をなす」ですから、方便だったという意味です。仏は一人

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参考にした文献 「尼僧の告白」(テーリーガーター) 岩波文庫 / サンユッタ・ニカーヤ(悪魔との対話 Ⅱ)サンユッタ・ニカーヤ(神々との対話 Ⅰ) 岩波文庫/ ブッダの言葉(スッタニパータ)/

先月の6月分は、また改めて載せたいと想います。しばしお待ちを。