Buddha

四諦の法・十二因縁の法・一仏乗

観想

空観

全てを「空」と見れる。

火宅 → 三乗 → 脱出 → 一仏乗 → 火宅に戻る

観想が大切

釈迦牟尼仏は、鷲の峰で初め「無量義経」を説いた。その後瞑想に入り眉間より光を放ち集会に来ていた者に六道世界の住人の姿を映像で見せた。その後瞑想から覚め、「法華経」を説いた。そして、その場にいた者に授記を授けた。すると突如、空中に塔が現れ、中から多寶如来が釈迦牟尼仏に中に入り隣に座るよう席を空けた。二如来は高く空中に上った。集会の者たちも同じ高さまで上げてもらった。二如来は言葉を発した。「仏滅後、この法を広める者はいないか?」と。集会にいる者たちや、釈迦牟尼仏の分身仏や従者である菩薩たちが手を挙げた。娑婆国土だけはとても難しいので、釈迦牟尼仏の本来の姿である毘盧遮那仏である時から教化していた地涌の菩薩たちがいるという。しかし、なかなか受けてはくれず、釈迦牟尼仏の前世である常不軽菩薩の話を説いた。その後、地涌の菩薩が解くことを受け入れた。釈迦牟尼仏はとても喜び、3つの神力を現した。舌打ちをし、舌を梵天世界に伸ばし納めてから、指を弾いた。そして集会に来ていた者達に、法華経を託し、それぞれの国に帰っていった。

これらの場面を正しく思い描くことが「観想」という。それが初めは難しいことでも、繰り返していくうちに、その場にいる者の性格から姿や息遣いまでも感じることができ、実際にその集会にいるような感覚になれたら、それが本当に釈迦牟尼仏に会えたという、教化されたことになる。

記録

人の体には、一つの魂ではなく、無数の魂の集合体でできている。そして、感情だと思い込んでいることは、一人の人間が起こしているのではなく、無数の魂の一つが感じていることが表に現れている。それを多くの人は勘違いしている。この一人の人間には名前がついているが、その名前の魂は死んでから単体の魂として出来上がるため、生きているうちは育成し