Buddha

四諦の法・十二因縁の法・一仏乗

日程とコメント

約3分
日程とコメント

昨日はやっとの思いで法座に行けました。今の私に必要なことがたくさんありました。聞き終わって帰る時は苦しくてどうしようかと思いながらトボトボ。帰宅後、法座で訴えました。どうしたらいいかわからない、と。その後ダラダラ。やはり夜中に目が覚め、いろんな質問を検索していたら、なんとなくわかった気がしました。

昨日の法座は特別であり、開教記念日でした。なのでいつもとは違う説法になりました。覚えていることだけを言いますと、お経巻、妙法蓮華経の方ですが、そこに書かれている「乾闥婆・阿修羅・カルラ・キンナラ・マホラガ」という半神たち。半神は時にすごい力を発揮するそうです。なので、本当にちゃんと法が説かれているところには必ず居ないと広まらないそうです。今回はキンナラを取り上げています。この半神が持つ神力がどういうものなのかは、これからわかってくるそうです。

解説をしたものは、ヴァガバットギータという、マハーバーラタの中の一部分なんですが、アルジュナが戦車に乗っていて、敵である叔父と対立します。でも殺せないでいる。同乗していたクリシュナ、ヴィシュヌ神でもあるのですが、恐ろしい姿をアルジュナに見せます。それをみたアルジュナは恐ろしくて震え上がり、頼み込んで下の人間に戻ってもらいます。そして心が定まり、叔父を殺す決心がつきます。ナラとナーラーヤナというのがいて、アルジュナが「ナラ」、クリシュナが「ナーラーヤナ」であり、妙法蓮華経品の妙音菩薩品を読むと、妙音菩薩の姿の形容が書かれています。「ナラエンの身のごとし」と。このナラエンとは、ナーラーヤナのこと。それがなぜナラがアルジュナなのに、クリシュナの如し、という表現をするのだろうと、ずっと会長は気になっていたそうです。そのことが今回わかり、このヴァガバットギーターで明かされます。怖い姿を見たことで我見がなくなり、ナラであるアルジュナが、ナーラーヤナであるクリシュナと同化した、つまり一つになったんです。我見とは目の前にいる叔父を殺したくない、という思い。でも、流れは殺さないと進まない。そもそも目の前の叔父の方が、それについては知ってなお、殺されるとわかって立ち向かっています。こういう場面はとても重要なんだそう。

正しい教えのもとで学び、理解し、その上で何気なく立ち寄った場所には、必ず読んでいる魂があり、その意図せずして起こした行動により霊界は救われる。それが神々の甘露というアマリスクになります。力になるということ。このヴァガバットギーターの場面を知ったことだけで、霊界は受け止めてくれるそうです。さらに場面を思い描き覚えることをしたら、もっと霊界に甘露を注いだことになります。

こんなドラマチックなファンタジーな映画のようなことじゃなく、私たちは日常の生活の中で苦行があり、それが法華経の修行にあたる。私は、今現在 苦しんでいて、アルジュナのように気が狂いそうな状態でいる。だけど死ぬ思いで法座に行って説法を聞けたことで、我を捨てられた。一瞬、捨てられたけど帰る時は戻ってしまった。それでいいんです。聞いたことは忘れないので。また思い出せば。

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ta@o-mote
霊界ごとが好きでホームページを作りました。

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